人間が生きる上で、「業」というものが必ず付いて回るという。
ご存じの方も多いとは思うが、これは宗教的な考えが元になっている言葉である。しかし世俗的に使われている言葉としてはネガティブなニュアンスで使われている現場の方によく出くわすので、私もこの言葉に対して一方的にネガティブなイメージを抱いていた。
原義としては行為そのものを表す言葉であり、「業」単体には別にネガティブな意味合いが無いということを、今作のための作業中に初めて知った。まあ、「職業」などに使われる「業(なりわい)」には全然ネガティブな意味合いはないし、よく考えたら分かる事だったのだけれども。
そして「業」という概念は、「因果」と深く結びついている、という。
結局は因果である。正直に言ってしまえば別に宗教は信じていないが、物理的な出来事も、感情の中の出来事も、全ては因果だと思う。原”因”と結”果”が全てを形作っている。
勿論この世には結果が出ていない出来事もたくさんあるが、結果がないのではなく、原因と結果の間に私たちがいるだけに過ぎない。私達の目からはある一定の出来事の末尾が見えなくなることがあるが、それもまた一つの結果である。
そのある種機械的な因果の周り、より人間に近い領域に漂っているのが、「業」なのではないだろうか。
全ての生き物は行動を起こす。行動には原因あるいは動機があり、結果が生じる。私たち人間も例外なくそのサイクルの蓄積の内部で生きている。「ただ寝ている」という状態も生命維持活動の面からは「睡眠」、道徳の面からは「怠惰」、といった様々な意味付けの中に回収されることを思えば、人間が自らが生み出した感情や思考の俎上で生きていく限りは、「行動しないこと」は不可能といえる。
私たちは泳ぎ続けないと生命を維持できないマグロを水族館の水槽越しに興味本位で眺めてみたりするが、人間が生み出した意味付けや生命活動の厳密さの前では常に動くことを強制されているわけで、ある一定の視点から見れば人間とマグロは似た者同士なのかもしれない。
時折、人間は生きている間は形を変えずにはいられないのではないか、ということを思う。
メソポタミア文明、つまりはユーフラテスとティグリスの間で(地理的には正確には「間」ではないかもしれないが)文字が生まれた、という知識は何となくずっと頭の片隅にある。世界史の授業でも習ったはずだけれども、あまり模範的な学生ではなかったからぼんやりとしか覚えていない。
私は文章を書くのが好きだし、読むのも好きな人間だけど、しかし文章の読み書きの全ては今でもこの二つの川の間にあるわけだ。この世の全ての書店、図書館、学校の図書室、そして文章はユーフラテスとティグリスの間に存在している。それは同時に、今こうして書いている「文章」という表現手法も、長い因果の末に生まれたものであるということを意味している。
今回は全ての曲の基本的な音量を、audacity上の数値で言うところの-6辺りに設定している。
この内容で音量があまりにも大きいと、リスナーを様々な面で脅かしかねない可能性があるということが一つ。あまりキャッチーな内容ではないので、それぐらいの配慮はしたい。
そしてノイズミュージックを聴かせるにあたって、音量を大きくして得られる迫力や快楽よりも、全てを見通せる距離感の方が欲しかったというのが一つ。
優れたポップミュージックは全てのパートの音がハッキリと立ち、違和感が無い程度に分離しながらも、全体としては調和していることが望ましいとされることが多いように思う。なので、こうした音楽でもそれぐらいの距離感が保たれていても良いはずなのでは、ということを考えたのだ。
海外の図書館が配布している、著作権の切れた古書の挿絵を組み合わせたコラージュを制作し、今作のアートワークに設定した。素材に使ったのは当時の地層や機械や生物についての本から幾つか、そしてそれ以外の大部分は児童書からのものだ。
児童書は「常識」「知識」「勧善懲悪」といったものを広く啓蒙するための著書が多い(とはいえ現代日本の児童書はだいぶ遊びの要素も多く、風通しが良い環境だとは思うが)けれども、こと著作権が切れるほど古い海外の児童書となると、その要素はかなりあからさまに表出していて、文章をわざわざ訳さずとも宗教的背景に根差した啓蒙のニュアンスを強く感じ取れた。言うまでも無く、それは今作のコンセプトと非常にフィットしていた。
なお、「Apple Blossoms」という曲名は素材に使用した挿絵に書かれていた言葉から引用したものである。
今作は二つの曲でElselさんと友人さんによる配信番組「深夜だから壁を食っても許される」の音声を使用させていただいている。
ぴんくりんごさんを招いた回で、Elselさんが寝落ちしてしまい急遽友人さんとぴんくりんごさんの二人による緊急配信が行われる、というアクシデントが起こった。今作で使われているのはElselさんが起きた後に謝罪を兼ねて行われた配信の様子の音声だ(この配信にもぴんくりんごさんは参加しており、故にぴんくりんごさんの名前もクレジット欄に明記している)。
単に「交流があり許可の取りやすい方々の音声だから」「この回にはBGMがないから」という単純な理由で(そして同時に、「かべゆる」の音声を使う曲の構想は長らくあったので)今回素材に使用させていただいたのだけれど、思えばこの音声を素材として使うということが決まっていた時点で、既に「原因と結果」を巡る歯車は既に動き始めていたのだ。
最後に、音声の使用を許可していただいたElselさん、友人さん、ぴんくりんごさんのお三方に感謝を。
高橋知秋
ご存じの方も多いとは思うが、これは宗教的な考えが元になっている言葉である。しかし世俗的に使われている言葉としてはネガティブなニュアンスで使われている現場の方によく出くわすので、私もこの言葉に対して一方的にネガティブなイメージを抱いていた。
原義としては行為そのものを表す言葉であり、「業」単体には別にネガティブな意味合いが無いということを、今作のための作業中に初めて知った。まあ、「職業」などに使われる「業(なりわい)」には全然ネガティブな意味合いはないし、よく考えたら分かる事だったのだけれども。
そして「業」という概念は、「因果」と深く結びついている、という。
結局は因果である。正直に言ってしまえば別に宗教は信じていないが、物理的な出来事も、感情の中の出来事も、全ては因果だと思う。原”因”と結”果”が全てを形作っている。
勿論この世には結果が出ていない出来事もたくさんあるが、結果がないのではなく、原因と結果の間に私たちがいるだけに過ぎない。私達の目からはある一定の出来事の末尾が見えなくなることがあるが、それもまた一つの結果である。
そのある種機械的な因果の周り、より人間に近い領域に漂っているのが、「業」なのではないだろうか。
全ての生き物は行動を起こす。行動には原因あるいは動機があり、結果が生じる。私たち人間も例外なくそのサイクルの蓄積の内部で生きている。「ただ寝ている」という状態も生命維持活動の面からは「睡眠」、道徳の面からは「怠惰」、といった様々な意味付けの中に回収されることを思えば、人間が自らが生み出した感情や思考の俎上で生きていく限りは、「行動しないこと」は不可能といえる。
私たちは泳ぎ続けないと生命を維持できないマグロを水族館の水槽越しに興味本位で眺めてみたりするが、人間が生み出した意味付けや生命活動の厳密さの前では常に動くことを強制されているわけで、ある一定の視点から見れば人間とマグロは似た者同士なのかもしれない。
時折、人間は生きている間は形を変えずにはいられないのではないか、ということを思う。
メソポタミア文明、つまりはユーフラテスとティグリスの間で(地理的には正確には「間」ではないかもしれないが)文字が生まれた、という知識は何となくずっと頭の片隅にある。世界史の授業でも習ったはずだけれども、あまり模範的な学生ではなかったからぼんやりとしか覚えていない。
私は文章を書くのが好きだし、読むのも好きな人間だけど、しかし文章の読み書きの全ては今でもこの二つの川の間にあるわけだ。この世の全ての書店、図書館、学校の図書室、そして文章はユーフラテスとティグリスの間に存在している。それは同時に、今こうして書いている「文章」という表現手法も、長い因果の末に生まれたものであるということを意味している。
今回は全ての曲の基本的な音量を、audacity上の数値で言うところの-6辺りに設定している。
この内容で音量があまりにも大きいと、リスナーを様々な面で脅かしかねない可能性があるということが一つ。あまりキャッチーな内容ではないので、それぐらいの配慮はしたい。
そしてノイズミュージックを聴かせるにあたって、音量を大きくして得られる迫力や快楽よりも、全てを見通せる距離感の方が欲しかったというのが一つ。
優れたポップミュージックは全てのパートの音がハッキリと立ち、違和感が無い程度に分離しながらも、全体としては調和していることが望ましいとされることが多いように思う。なので、こうした音楽でもそれぐらいの距離感が保たれていても良いはずなのでは、ということを考えたのだ。
海外の図書館が配布している、著作権の切れた古書の挿絵を組み合わせたコラージュを制作し、今作のアートワークに設定した。素材に使ったのは当時の地層や機械や生物についての本から幾つか、そしてそれ以外の大部分は児童書からのものだ。
児童書は「常識」「知識」「勧善懲悪」といったものを広く啓蒙するための著書が多い(とはいえ現代日本の児童書はだいぶ遊びの要素も多く、風通しが良い環境だとは思うが)けれども、こと著作権が切れるほど古い海外の児童書となると、その要素はかなりあからさまに表出していて、文章をわざわざ訳さずとも宗教的背景に根差した啓蒙のニュアンスを強く感じ取れた。言うまでも無く、それは今作のコンセプトと非常にフィットしていた。
なお、「Apple Blossoms」という曲名は素材に使用した挿絵に書かれていた言葉から引用したものである。
今作は二つの曲でElselさんと友人さんによる配信番組「深夜だから壁を食っても許される」の音声を使用させていただいている。
ぴんくりんごさんを招いた回で、Elselさんが寝落ちしてしまい急遽友人さんとぴんくりんごさんの二人による緊急配信が行われる、というアクシデントが起こった。今作で使われているのはElselさんが起きた後に謝罪を兼ねて行われた配信の様子の音声だ(この配信にもぴんくりんごさんは参加しており、故にぴんくりんごさんの名前もクレジット欄に明記している)。
単に「交流があり許可の取りやすい方々の音声だから」「この回にはBGMがないから」という単純な理由で(そして同時に、「かべゆる」の音声を使う曲の構想は長らくあったので)今回素材に使用させていただいたのだけれど、思えばこの音声を素材として使うということが決まっていた時点で、既に「原因と結果」を巡る歯車は既に動き始めていたのだ。
最後に、音声の使用を許可していただいたElselさん、友人さん、ぴんくりんごさんのお三方に感謝を。
高橋知秋