2019年1月26日土曜日

Lifted




イメージだけで組み立てられたハウス。
そして無感情。

2019年1月17日木曜日

「Thought Lesson」について

 spotifyで「Thought Lesson」というプレイリストを制作し、公開した。

 J-POPというジャンルは存在するのだろうか?非常に難しい問いだと思う。他のジャンルのように何かしらの不文律や法則があるわけではなく、むしろ多くの他の音楽ジャンルを呑み込み成立している不可思議な概念だ。こと現代では多くのリスナーがなんとなく「それっぽい」と思った音楽がJ-POPとして選り分けられているような印象を受ける。実際J-POPという言葉を作り出したJ-WAVE内でもその選別は感覚的に行われていたという。故にその実態は曖昧だ。集団幻想にも近いジャンルなのかもしれない。

 このプレイリストを制作するにあたって苦労したことがいくつかある。まず大変だったのが、「私の中のJ-POP」という概念の線引きがどこにあるかを見極めることだった。例えば難解な楽曲を”あえて”J-POPとして認める、というようなことはしたくなかった。私の中では、そしておそらく世間的にも間違いなくJ-POPに分類される音楽なのだけれどこの中に並べると違和感が生じてしまう曲などもあり、意外にもこの点で一番悩まされたように思う。
 今回収録した楽曲だとスネオヘアーの「のびたテープ」とandropの「Tara-Reba」はここに収めるかどうかかなり判断を迷った(特にandropはロックバンドとしての色が強いので、この並びに入れるべきかの判断がかなり難しかった)が、最終的に私の中の線引きを信じて選曲することにした。

 そして私自身の知識の無さ、見識の甘さ、聴取量の疎さにも泣かされることとなる。それでもなんとなく引っかかった曲の記憶などに助けられ(今回収録したSKE48と純情のアフィリアの楽曲は、数日前に飲食店の有線で偶然聞いて存在を知った曲である)、長年親しんできた中田ヤスタカプロデュースの楽曲だらけになるような状態はなんとか回避できた。
 また、ストリーミング配信を行っていないアーティスト・ユニットの多さにも苦労させられた(これが原因で収録を諦めた楽曲が5曲ほど存在する)。
 これらの事情により、「ただSpotifyのプレイリストを作るだけ」の行為に結構な時間を要することとなった。

 言うまでもなく私はJ-POPが好きだ。しかし、J-POPのことはやはりよく分からない。これからもずっと分からないままだろう。



1. スネオヘアー / のびたテープ
2. 剛力彩芽 / Rainbow
3. Mr.Children / youthful days
4. SKE48 / Stand by you
5. Do As Infinity / タダイマ
6. androp / Tara-Reba
7. 槇原敬之 / Witch Hazel
8. MEG / SEARCHLIGHT
9. moumoon / moonlight
10. Salyu / VALON-1
11. ORANGE RANGE / Walk on
12. 純情のアフィリア / 起・承・転・結・序・破・急
13. DEAN FUJIOKA / Let it snow!

2019年1月1日火曜日

『考えないアシは思う。』

 月白シタンさんが新作動画を公開している。年が変わる頃にアップロードされたもので、ご本人曰く当初はプレミア公開の予定があったようだ(その節は大変失礼しました)。
 タイトルは『考えないアシは思う。』。同時に、概要欄には「いつまでもヨダレを垂らして、画面を見続けている君へ」という言葉が載せられている。

 ここから先の文章は、あくまで私の解釈であることを念頭に入れて読んでいただきたい。

 シタンさんはこれまでもバーチャルyoutuberの持ち得る「錯覚」について(無意識の結果であれ)言及するタイプ映像を何度か投稿してきた。先日公開された、自己紹介動画というもののフォーマット”のみ”が存在する映像「【自己紹介】はじめまして!〇×ひよりです!」などはその最たるものだろう。ここでは音声も無ければキャラクター設定もほとんど説明されない動画であっても、一定のテンプレートさえ存在すればある程度の映像が成立することについて触れられている。
 またソムニアの担当医名義(※)で公開された力作であり、本人も折に触れて言及することも多い「500光年先の私より、地球の皆さんへ」にもその視点は存在しているように思う。この作品は限りなく短編映画に近い構造を持った映像だが、そこにバーチャルyoutuberならではの「画面の向こうに語り掛ける」形式を取り込むことでストーリーへの没入感を高め、そこにあるテーマ性をよりリアルにすることに成功している。架空と現実を意図的にあいまいにするバーチャルyoutuberという表現手法の持ち得る説得力がかなり効果的に使われていると思う。

 そしてこの動画ではより根源の部分が問われている。私たちが動画の中に存在する様々なアバターを、生身の存在に近いものとして認識するポイントは果たしてどこにあるのか。動き。声。動画サイトというプラットフォームで動画を見るという行為。あるいは、”バーチャルyoutuber”という名前の付くものを見ているという体験そのもの。そもそも私たちは果たしてバーチャルyoutuberを人間だと思って見ているのか。もし異なるものとして見ているとしたら、その境界線はどこなのか。
 冒頭では「命」について「人に近いもの」であり「恐れること」であると説明される。アニメーションの語源は「anima」であり、絵やキャラクターといった本来生命がないものに、動画技術で命を与えることを意味している。だとするとバーチャルyoutuberとはどのような事なのだろうか。命がないアバターがまるで命が存在するようにふるまう行為なのだろうか。いや、声優というアクターが操作するキャラクターではないということは繰り返し言われてきたはずだ。だとすると、バーチャルyoutuberの「命」はいったいどこにあるのか。

 人間とは考える葦である、とはパスカルの言葉らしい。
 正直私はそこまで学があるわけではないので、wikipediaでいろいろと調べることにする。『人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。』というものが正確な訳のようだ。他の部分も加味するとつまりは森羅万象が思考を持たない存在であることに対して、人間は思考を持つ存在であることを強調し、そこにある価値を説く言葉…という解釈で良いのだろうか。多分間違っていると思う。
 私の想像力と読解力の貧弱さはさておき、この訳文を読めば『考えないアシ』が何を表しているのかは一発でわかるはずだ。そして『考えないアシ』は『思う』のである。

(※)コンセプトの関係上ソムニアの担当医”名義”という表現は適当ではないかもしれませんが、ここでは便宜上名義という言葉を使っています

追記:ご本人に反応をいただけた(ありがとうございます)。タイトルには「我思う、ゆえに我あり」のニュアンスも少し含まれているとのこと。また、私も以前読んだにもかかわらず言及し忘れた資料として、このpixivファンボックスのリンクを紹介しておきたい。「500光年先の私より、地球の皆さんへ」が何故あの表現を必要としたかについて触れられている。