月白シタンさんが新作動画を公開している。年が変わる頃にアップロードされたもので、ご本人曰く当初はプレミア公開の予定があったようだ(その節は大変失礼しました)。
タイトルは『考えないアシは思う。』。同時に、概要欄には「いつまでもヨダレを垂らして、画面を見続けている君へ」という言葉が載せられている。
ここから先の文章は、あくまで私の解釈であることを念頭に入れて読んでいただきたい。
シタンさんはこれまでもバーチャルyoutuberの持ち得る「錯覚」について(無意識の結果であれ)言及するタイプ映像を何度か投稿してきた。先日公開された、自己紹介動画というもののフォーマット”のみ”が存在する映像「【自己紹介】はじめまして!〇×ひよりです!」などはその最たるものだろう。ここでは音声も無ければキャラクター設定もほとんど説明されない動画であっても、一定のテンプレートさえ存在すればある程度の映像が成立することについて触れられている。
またソムニアの担当医名義(※)で公開された力作であり、本人も折に触れて言及することも多い「500光年先の私より、地球の皆さんへ」にもその視点は存在しているように思う。この作品は限りなく短編映画に近い構造を持った映像だが、そこにバーチャルyoutuberならではの「画面の向こうに語り掛ける」形式を取り込むことでストーリーへの没入感を高め、そこにあるテーマ性をよりリアルにすることに成功している。架空と現実を意図的にあいまいにするバーチャルyoutuberという表現手法の持ち得る説得力がかなり効果的に使われていると思う。
そしてこの動画ではより根源の部分が問われている。私たちが動画の中に存在する様々なアバターを、生身の存在に近いものとして認識するポイントは果たしてどこにあるのか。動き。声。動画サイトというプラットフォームで動画を見るという行為。あるいは、”バーチャルyoutuber”という名前の付くものを見ているという体験そのもの。そもそも私たちは果たしてバーチャルyoutuberを人間だと思って見ているのか。もし異なるものとして見ているとしたら、その境界線はどこなのか。
冒頭では「命」について「人に近いもの」であり「恐れること」であると説明される。アニメーションの語源は「anima」であり、絵やキャラクターといった本来生命がないものに、動画技術で命を与えることを意味している。だとするとバーチャルyoutuberとはどのような事なのだろうか。命がないアバターがまるで命が存在するようにふるまう行為なのだろうか。いや、声優というアクターが操作するキャラクターではないということは繰り返し言われてきたはずだ。だとすると、バーチャルyoutuberの「命」はいったいどこにあるのか。
人間とは考える葦である、とはパスカルの言葉らしい。
正直私はそこまで学があるわけではないので、wikipediaでいろいろと調べることにする。『人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。』というものが正確な訳のようだ。他の部分も加味するとつまりは森羅万象が思考を持たない存在であることに対して、人間は思考を持つ存在であることを強調し、そこにある価値を説く言葉…という解釈で良いのだろうか。多分間違っていると思う。
私の想像力と読解力の貧弱さはさておき、この訳文を読めば『考えないアシ』が何を表しているのかは一発でわかるはずだ。そして『考えないアシ』は『思う』のである。
(※)コンセプトの関係上ソムニアの担当医”名義”という表現は適当ではないかもしれませんが、ここでは便宜上名義という言葉を使っています
追記:ご本人に反応をいただけた(ありがとうございます)。タイトルには「我思う、ゆえに我あり」のニュアンスも少し含まれているとのこと。また、私も以前読んだにもかかわらず言及し忘れた資料として、このpixivファンボックスのリンクを紹介しておきたい。「500光年先の私より、地球の皆さんへ」が何故あの表現を必要としたかについて触れられている。