2021年9月29日水曜日

解題、『As I See You』


 
 数年前に、ある展覧会で映像作家の飯村隆彦氏によるインスタレーション作品を見た。タイトルは「AS I SEE YOU SEE ME」。このニュアンスを掴むのがやや難しい英文は、作者自身によって「私があなたを見るように、あなたは私を見る」と訳されている。
 2台のカメラとそれが接続された2台のモニターから構成された作品で、モニターは向かい合った形で置かれており、その画面には「I」「YOU」と書かれている。
  モニターの横にはカメラが置いてあるが、実際にはそれぞれのモニターは反対側のモニターの横にあるカメラと接続されており、よってモニターは観客の先入観を裏切る風景を映し出す。
 もともとは2台のカメラや壁に書かれたタイトルの英文などを用いたパフォーマンスとして発表された作品らしく、私が見たのはそのインスタレーション版、ということらしい。

 このEPのタイトルがその作品から無意識に引用されたものであることに、音源の製作後に気付いた。

 高橋知秋としての音楽作品は大きく3つに分けられる。『Mind Seeker』『Trance』のような比較的ダンスミュージックに近い文脈からアプローチをとっているもの、『Cherry Blood』『A lone dance』のような非音楽的なアプローチを前面に置いているもの、そしてその中間。今回ははっきりと、非音楽的な傾向を意識して制作した。
 制作手法とその手法を選んだ意図は、全て『A lone dance』からの流れを汲んだものだ。

 製作時、音によって「見る」こと/音を「見る」こと、という意識は何となくあった。
 例えば2曲目の「19_2」は強めの眠気で意識が混濁した状態のなか、「ハウリングのような音が聴きたい」という意志だけで録音し続けた音を、意識が覚醒している時間帯に編集した曲だ。
 このような情報を与えられると、聴き手はそうした先入観を持ってこの曲を聴くことになり、(作り手である私自身でさえ)その音の揺らぎに眠気の存在を察知する可能性が与えられるわけだけれども、一方で音は音として独立した存在であり、我々は説明による先入観以外の方法では(作り手である私自身でさえ)そこに感情や意味合いを付与することが出来ない。

 音楽は時間の経過を意識することを常に強いる。絵や写真や風景のように一つの場所から全体を俯瞰することは不可能だ。全体を見通すためには、必ず演奏開始から演奏終了まで聴き通さなければならない。その特殊性については何年も前から、ずっと、というのは嘘になるけれども、少なくとも定期的には考え続けている。
 それを踏まえると、最初に高橋知秋として音楽作品を公開する際に立てた目標の一つ「退屈を恐れない」は「時間の経過に対してアクションを起こさないことを恐れない」とも言い換えが可能になる。
 当然だけどアクションを起こしたほうがリスナーには物事を伝えやすいし、私自身も快適ではある。実際にアクションを取り続けることによって構成された『Trance』『Area Of Karma』のような作品も作ったし、別にそれが嫌というわけではない。
 しかしその代わり、今作のようにアクションを取らない手法も行う必要がある。高橋知秋の音楽活動はそのためのプロジェクトでもあるからだ。

 3曲目の「27」は『kiroku_to_kioku』などの諸作で活躍しているカセットレコーダーを用いたフィールドレコーディングだ。外に出たときに虫の声を聞いたことでこの曲の構想を思いつき、家からカセットレコーダーを持ち出して、近所の公園で録音した。
 この制作過程を加味すると、今作の背後には「アクションを起こさないために様々なアクションが必要とされる」という矛盾した事実も存在していることになる。

 結局のところ、「見る」とはどういうことなのだろう?
 人間にとって「見る」ことは永遠のテーマの一つだと私は考えている。そしてそれは「聴く」ことも同じだとも。

 数年前に展覧会で見た「私があなたを見るように、あなたは私を見る」という言葉、そしてその言葉の基に、2台のカメラと2台のモニターを用いて視界が拡張された様が、このような形を伴って無意識下から浮上したのが「高橋知秋の活動の3周年」というタイミングだったことに、奇妙な符合の存在を感じそうになる。

 しかし、私たちはしきりに物事を必然と偶然に分けたがるけれども、必然も偶然も人間の中にしかない。本当に存在しているのは原因と結果による事実、そしてどこまでも決しない曖昧な現在だけだ。
 そうした曖昧な部分を「見る」ために、私はこのような形の音楽作品を作っているのかもしれないと、この文章を書いていてふと思った。

 最後に。
 4曲目の「28」。この曲には未来への希望を望むような曖昧な願望が、僅かながら、しかし確実に反映されている―と完成後に音源を聴いて確信した。そのようなことは製作時には全く意識しておらず、音源を聴き返した際には少し驚いた。
 斯くして、音を通して私は私自身を「見た」のである。それは丁度、まるで映像の中に映り込む自らを「見た」かのように。

高橋知秋